愛とは何か~愛を科学的に解明する~

愛とは何だろう。人を幸福にしつつもどこかで人を傷つけてもしまう愛。この両義的で神秘的な「愛」について巷に溢れるモテのノウハウや啓発書とは異なった視点から元早稲田大学の学生である管理人が描いていくブログ。週一くらいで更新。

第四回 愛は科学できるかできないか~感情は目で見れるか見れないか~

長らく更新が滞っていました。

 

申し訳ございません。

 

かまちゃんです。

 

前回は愛とは

 

愛されることなのか愛すことなのかを考え

 

結果、どちらも大事ではないかという結論を出しました。

 

とはいえ愛に関して、

 

愛が一般的には神秘的で目には見えないものと考えられている以上

 

言葉で定義できないため、

 

現状、意識的に愛を考え愛という行動をすることが出来ません。

 

はたして愛は神秘的であるがゆえに科学することが出来ないのでしょうか?

 

いや、私は愛は科学によって完全とは言えなくても定義できると断言します!

 

そのことを根拠をもって説明するため、

 

まずは愛を含め感情と呼ばれるものが神秘的に考えられることを決定づけた、

 

哲学者のデカルトについてご説明します。

 

哲学やデカルトと言われると身構えてしまうかたもいらっしゃるかもしれません。

 

しかしご安心ください。

 

今回も前提知識なし、国語の読解力なしでも分かりやすいようにご説明します!

 

 

 

心を目に見えない物にしたデカルト

 

先ほどお話したように、

 

心を目に見えないものとして定義し、

 

今なおその影響力が強く残っているのがデカルトの考え方です。

 

皆さんも義務教育の中で彼の名前を聞いたのではないでしょうか。

 

そう「我、思うゆえに我あり」ですね。

 

彼こそが近代以降に生まれた人たちの常識に、

 

心は身体とは別次元にある実体だ(ゆえに心は目では見れない)

 

という考え方を植え付けた人です。

 

心は身体とは別の次元にある実体だ、といわれても理解が難しいかもしれません。

 

こう考えてみましょう。

 

頭の中にドラエモンを思い浮かべてください(笑)

 

ドラエモンには四次元ポケットがついていますよね?

 

その中には実体をもった色んな物が、つまり秘密道具がありますよね?

 

まずドラエモンの体はのび太君と同じ、三次元にあります。

 

一方先ほども述べたように秘密道具は四次元ポケットの中にあります。

 

デカルトにおいては

 

体と心の関係は、上記のドラエモンと秘密道具の関係と同じになります。

 

つまり、体はドラエモンと同じで三次元に、現実世界にあります。

 

しかし、

 

心は体のある三次元ではなく、

四次元とはいいませんが、どこか秘密道具と同じで体と別の空間にあります。

 

ドラエモンの例えと異なるのは、

 

心は四次元ポケットのようなもので三次元とはつながっていないということです。

 

なので心を目で見ることはできず、

 

また三次元の世界から心を操作することもできません。

 

お分かりいただけたでしょうか?

 

とりあえずデカルトは、

 

心は体と別の空間にあるので

目で見ることは不可能である

また人間の世界がある三次元の現実世界から心を操ることは不可能である

 

と考えていたと覚えておいてください。

 

 

デカルトの心の定義の時代背景

 

上記の心の定義は、

 

言い方を変えながらも現代人の心や愛についての考え方に常識として今なお残り続けています。

 

ではなぜデカルトは上記のように心を考えていたのでしょう。

 

それには時代性が深く関わっています。

 

彼が世の中に大きな影響力を持つこととなった論文「省察」は

 

1641年の時代が近代へと移り行こうとしているなかで書かれました。

 

近代といえば産業革命など科学技術が大きく発展した時代です。

 

科学技術が発展する以前、

 

世の中では様々な根拠のない迷信や神様への信仰などが大きな影響力を持っていたため、

 

人間の理性によって思考するということがないがしろにされていました。

 

なのでいくら科学的に正しいことでも神様への冒涜だとして様々な科学者や哲学者が迫害されてきました。

 

そこで人間が思考することを促すために哲学をしたのがデカルトでした。

 

彼は世の中にある迷信のようなものを信じることが出来ないため、

 

ありとあらゆるものを疑い始めました。

 

それは、

 

自分が夢を見ているかもしれない、

 

神様に悪魔に騙されているかもしれない、

 

として自分の体を含め自分が知覚している世界も疑わしいとして無視しました。

 

そうして彼が疑いに疑った結果残ったのが、

 

自分があらゆるものに疑いをかけているという意味で、

 

自分が物事を思考しているという事実でした。

 

有名な「我、思うゆえに我あり」ですね。

 

そのことによって

 

デカルト人間の理性を絶対的に優位な物としました。

 

この哲学的な考え方によって、

 

迷信は否定され、

 

科学を筆頭に人間の理性が全面的に信頼されるという状況が整いました。

 

ただしそれですべてが解決したわけではありませんでした。

 

科学が神様のように絶対的な物だとすると、

 

人間の自由、意志、創造性、魂そして心といったものすらも

 

科学で操れてしまうことになってしまう。

 

それは人間性尊いものとして守りたいデカルトからすれば耐え難いことでした。

 

そこで彼は、

 

心と身体は異なるものであり、

 

心の実体は体とは別の次元にあるとすることで、

 

身体は科学によって操れるかもしれないが、

 

心は人間の生きる世界の中にないので科学によっても操れないということにしました。

 

そうしてこの哲学的な前提のもと、

 

物理学、心理学、医学、社会科学などが発展していくこととなります。

 

 しかしそれでもなお疑問が残ります。

 

心が人間が生きている三次元の中にはなく目では見えないにもかかわらず、

 

なぜ人に喜怒哀楽のような心があるということが出来るのだろうか?

 

だとすると本当に心は目で見えないものなのだろうか?

 

 

■心は目で見れるか見れないか

 

 では本題。

 

はたして心は三次元ではないどこか別の空間にあるために、

 

目で見えないものなのだろうかそれとも見えるのだろうか?

 

このことを考えるために心と体の関係を二パターンにわけ、

 

それぞれの場合でのうつ病における投薬治療の効果を考慮して考えてみよう!

 

ちなみに、

 

うつ病における投薬治療とはどういうことかというと、

 

うつ病という気分の落ち込みに気力の低下や自殺願望をともなう精神の病気、

 

この原因は脳の自律神経の乱れにあるとして、

 

風邪を治すように、薬を飲んで脳の自律神経に働きかけて心を治すということです。

 

つまり、精神を治すのに、体に働きかけようって治療法です。

 

 

●パターン1 心は身体と別の空間にあって相互に影響をあたえあっていない

 

これは表題の通り、

 

心は身体とは別の次元にあるので、お互いに影響を与えあわないと仮定するということです。

 

さてこれどう考えてもおかしいんです。

 

うつ病の投薬治療のように、

 

薬で体に働きかけることで、心の鬱な気分がなくなっているからです。

 

お互い影響を与えないならば、

 

薬を飲んでも気分がよくなることなんてありません。

 

これは科学的にも証明されていて、

 

例外はあるにしろ、抗うつ薬が心をよくするのに一定の効果があります。

 

また逆も同様で、

 

心は体に影響を与えます。

 

例えば、

人間は大勢の人の前でスピーチをするとなると、

手に汗をかいたりします。

 

よってパターン1はおかしいということになります。

 

 

 ●パターン2 心は体とは別の次元にあるが相互に影響を与えあっている

 

それではパターン2です。

 

これはパターン1と異なり、

 

心と体は相互に影響を与えあっているが、

 

パターン1と同じで心は三次元ではない別の次元にあります。

 

さてこちらもよく考えるとおかしなことになります。

 

先ほどと同じようにうつ病における投薬治療を考えると、

 

体がよくなったから、心がよくなったというのはパターン2の定義と矛盾しませんが、

 

体がよくなる前に、薬を飲んだことを考えると、

 

一体心は人間の身体と別の次元にあるのに、

 

体に入った薬の成分はどうやって、三次元から別の次元へ届いたのでしょう?

 

逆もまた同様。

 

心が緊張したとして、

 

いったいどのように三次元にある身体に影響を及ぼしたのでしょう?

 

そう、論理的に言って心と体がそれぞれ別の次元にあると考えることはできません。

 

むしろこう考えたほうが正しいでしょう。

 

心は体と別の次元にある、別々のものではない。

 

むしろ、

 

心と体は同じものである。

 

すなわち、

 

心は身体のことである。心=身体である!

 

と。

 

だから薬を体に取り入れれば心もよくなります。

 

だってそもそも心に実体なんてないばかりか身体と同じものなのだから。

 

 そして、このことからこの連載におけるかなり重要なことが分かります。

 

ここ絶対覚えてください!!!!!

 

 心は身体のことなのだから、

 

愛という心の働きも当然体の働きになります。

 

ということは、

 

愛というものは、体の働きとして目に見えるものだということになります!

 

だって体は人間の目に見えるもので、心は体なんですから。

 

はい、もう一度念のためまとめておきます!

 

心は身体である(心=身体)

よって愛は体の働きであり、目に見えるものである!

 

 

 ■誤解を招かないように~心は脳に還元できない~

 

さて、ここで誤解を招かないように皆さまに注意を促したい。

 

それは、

 

心の働きは全て脳内物質であり、

よって精神病は薬物投与によって全て解決できるなどと考えてはならない。

 

ということです。

 

確かにうつ病に対する投薬治療のように、

脳内物質は心の働きに関与している。

 

しかしだからといって投薬治療は万能ではない。

 

まずそもそも全ての精神病に対して投薬が有効というわけではないという臨床的な事実。

 

だからこそ日本ではあまりポピュラーではないものの、

 

ヨーロッパにおいてはいまだに精神分析療法が行われ、

 

ここ日本においても森田療法という投薬とは異なる治療法が行われたりします。

 

私が思うに、

 

それは投薬治療においても解決していない問題があるためだと思われます。

 

すなわち、なぜ脳内物質は正常な活動をやめてしまうのか?

 

また、物理学や物理学に準拠するような医学では人間の行動すべてを説明できるわけではありません。

 

なぜならば、

人間は言語的/非言語的「意味」によっても影響を受けているからです。

 

例えば、

皆さんがご両親の危篤の知らせを受け取ったとします。

 

その時皆さんはもしかしたら、

手に汗をかいたり、不安で心拍があがったり

 

とにかく身体的な変化を経験するかもしれません。

 

さてこの身体の反応はお便りの放つ物質的ものの影響でしょうか?

それともその知らせの内容という「意味」の影響でしょうか?

 

当然後者です。

 

なぜなら危篤の知らせを手紙でもらおうが、電話でもらおうが、LINEでもらおうが、

身体の反応は大きくは変わらないだろうからです。

 

直筆の手紙や肉声による電話よりも、LINEで同じ知らせを受け取ったほうが心配にならないなんてことないですもんね?

 

どの手段で知らせを受け取ろうが、両親は危篤なのだから。

 

よって、

 

うつ病も患者の経験した「意味」によって発病している可能性があるのだから、

 

投薬しても状況は変わらないということは十分考えうる。

 

ということになります。

 

かといって別に私は投薬療法を完全否定するものでもありません。

 

それはあくまでケースバイケースです。

 

おそらく全員がではないでしょうが、そのことは現場の精神科医も了解するところと思います。

 

以上脇道に逸れる形ではありますが、

 

デリケートな問題なので注意喚起させていただきました。

 

 

■まとめ

さて今回も長くなってしまいましたが、

 

ご理解いただけたでしょうか?

 

力及ばずということであれば、

 

お気軽にコメント欄にご質問ください。

 

再度になりますが今回の重要な結論を記しておきます。

 

●結論

1、

心は身体である(心=身体)

愛は体の働きであり、目に見えるものである!

よって愛は科学で定義できる

 

2、

人間は言語的/非言語的「意味」によっても影響を受けている

 

今回の結論を受け次回は、

 

愛という行動を社会科学的に定義するために、

どのような人間の行動を対象とするかを述べ、

 

加えて人間の行動の仕組みについても触れていこうと思います。

 

今回もお付き合いいただきありがとうございました。