愛とは何か~愛を科学的に解明する~

愛とは何だろう。人を幸福にしつつもどこかで人を傷つけてもしまう愛。この両義的で神秘的な「愛」について巷に溢れるモテのノウハウや啓発書とは異なった視点から元早稲田大学の学生である管理人が描いていくブログ。週一くらいで更新。

第三回 愛は愛されることか愛すことか~E.フロム「愛するということ」を考察する(後編)~

一記事入魂。精魂バテバテ。

 

疲れやすい体質のかまちゃんです

 

前回はフロムの著書「愛するということ」を参考に

愛を、

愛されることと愛すことの二つに分けました。

 

前回の記事でフロムが、

一般的に愛は愛されることとして考えられているが、

それは無意識的で受動的な態度であり、

人間らしい理性による能動的な働きかけを持たないという意味で良くないものだ、

と結論づけていることを確認しました。

 

では、フロムが推奨する

愛を愛することとして考えるとはどのようなことでしょうか。

 

■愛するということ

 フロムが愛することをどのように表現しているか本の中から抜き出してくると、

 

それは、

技術成熟活動生産的性格(与えるということ)

 

というになりますが、

 

では一体それぞれがどういうことか、

 

見ていきましょう!

 

 

愛は技術である

 

フロムが愛は技術であると言及する際に強調しているのは、

 

愛は理論を学習するものであり、繰り返して練習するという努力を必要とする。

 

ということなんですけど、

 

ぱっと見ただけでは意味が分からないですよね?

 

そこで、

鉄棒で逆上がりをしたことがあると思うので、ちょっとこれを例に考えてみましょう!

 

で、完全に余談ではあるんですけど、

 

私、小学校低学年の頃ずっとこの逆上がりとかいうやつがどうもできなくて、

 

「逆上がりなんてできて何になるねん!?」てな具合で、

 

まあ心底この逆上がりを恨んでて、

 

さぼって豚の丸焼きっていうのばかりやって、

 

逆上がりの練習をさぼっていたわけですよ。

 

で、なんであんなに逆上がりできなかったのか考えてみると、

 

私基本、どんな物事も習得するときに理論から入ったほうがやりやすくて、

 

思い返すと指導してくれる人が断然感覚派で合わない合わない(笑)

 

それで逆上がりの例に戻るけれども、

 

逆上がりも一つの技術ですよね。

 

それで、

逆上がりの理論にあたるのが、

例えば腕の力で体を鉄棒の方へ持ち上げる。

というのがありますよね。

 

僕の場合これを聞いて、

実際にその通りにやってみたわけですよ。

 

最初こそうまくいかなかったけれども、

 

何回も繰り返して、

 

それでもできないから、足の上げ方聞いて。

 

それで何とかできるようになって。

 

そう、

私は逆上がりという技術を、

腕の使い方と足の上げ方という二つの理論を知り、

 

その理論に従って

何回も繰り返し練習して

 

習得することができました。

 

この逆上がりと同じで

愛も理論を知って、反復練習することで習得できる技術なんですよってことを

 

フロムは言いたかったのだと思います。

 

 

 ・愛とは「成熟した愛」である

 

 はい、

では二つ目の「成熟した愛」とは何でしょう?

 

熟年夫婦のように大人のカップルの長年の付き合いのことではありません(笑)

 

フロムの言葉を借りれば

 

成熟した愛は、本来の全体性と個性を保ったままの状態での合一である

 

うん。。。

 

ちょっと何言ってるのか分からない。

 

自分なりに分かりやすく言うと。

 

最初の本来の全体性だけれども、

 

まず前提として、

人は生まれながらに他者から分離している。

えーと要するに孤独なんだ。

 

けれども、

生まれる前は神様の下で、

人類みんな別々の存在ではなく、一つのものだった。

よって孤独ではなかった。

 

だから、

人は生まれながらに孤独だけれども、

 

その孤独感に押しつぶされないように、

神様の下にいたときのようにひとつに他者と融合しようとする。

 

このことを想定して本来の全体性と呼んでいるんだ。

 

でもフロム的には融合するだけでは愛とは呼べなくて、

 

個性を保つということも重視している。

 

つまり、

融合して孤独感を解消するけど、

それでもなお完全には融合しないで人間が別々の個人であること。

 

これを成熟した愛と呼んでいるんだ。

 

それでなんだけども、

 

皆さんこんなことを解説している私やフロムを、

 

なんというかスピリチュアル系の人かな?

 

とか、スピリチュアル系の人を信頼していない人なんかは胡散臭いとか怪しいとか思ったと思うんです。

 

ですがフロムは知りませんが、

僕はスピリチュアルをあまり信じていません。

 

ま、そこまで思っていなくても、

意味分からん!!

 

とは思ったのではないでしょうか?

 

なのでもっとこのことを分かりやすく科学的に説明します!

 

。。。。。と言いたいんですけど、

 

私としてもここでできる簡単な説明は上の通りが限界で。

 

実はここらへんに愛に関する現代の言説の問題があるように思うのだけれども、

それがこの愛は何であるかというこのブログの一貫した問題意識になっていきます。 

 

なのでそれはまた後々ということで。

 

 ・愛には生産的な性格が必要

 

うん。ちょっと雲行きが怪しくなってきたところで、3つ目。

 

ここでいう生産的な性格とは、

 

愛をあたえること。

 

でも、あたえたからと言って見返りをねだらないこと。

 

愛をあたえたからと言って、

そのことを自分の貯蓄が減るようなことだと考えないということ。

 

 

さすれば、

それは他者を真に愛したこととなり、

あなたは他者から必ず愛されるであろう。

 

うん。。。

 

またスピリチュアルめいてきた。

もう、さっきも言ったから文句は僕じゃなくてフロムに言ってくれ!

 

とりあえず、愛はあたえられるじゃなくてあたえるもの!そう思う性格が大事って覚えてくれ。。。

 

・愛は活動である

 

さて気を取り直して、

最後の愛は活動である。

 

これは今までの愛するということをまとめるような表現だ。

 

それは、

技術にしろ、個性を保つにしろ、あたえるのが大事にしろ、

 

どれも愛されようという抑えようのない自分の無意識に流されたりせず、自分の意志で能動的に愛するということなんだ。

 

はい、

長かったけれどもフロムのいう愛するということを簡単にまとめ終わりました。

 

■愛は愛することでいいのか

 

フロムはここまで見てきたように、

愛を愛すること、

 

つまり

愛されようという抑えようのない自分の無意識に流されたりせず、自分の意志で能動的に愛することというふうに定義していた。

 

でもここまでの記述でもちょっと匂わせてきたけれども、

これって本当に正しいのだろうか?

 

彼の愛はどこか理想的すぎるし、

神秘的過ぎるのではないだろうか。

 

例えば、

愛はあたえるものであって、愛されようとねだってはいけない。

真の愛であれば、あたえていれば自然と自分も愛される。

 

これってどう考えても理想的過ぎるし、

どこのユートピアだろうと思う。

 

人が他者と関わるのは、

相手からリアクションがあるからだし、

そこで自分が愛されることを願ってはいけないのだろうか?

 

それに現実を見ていると、

相手に尽くしても尽くしても、

ちっとも報われないことはよくあることだと思う。

 

それは愛じゃない、ただの依存だと言い切ってしまえば、

愛をあたえていると思っている人があまりに不憫だ。

 

さらには、

本来の完全性と個性を保ったままというのも神秘的過ぎて、

キリスト教とか神様を信じているわけではない人にはいまいち想像しづらい。

 

無宗教者には愛はないのかと突っ込まれそうだしね。

 

よし、ここでとても重要なことはをいいます!

 

私がどうしても知ってほしいことの一つは

愛というものを神秘的で定義できないものとしてしまうと、

良くないことも多い。ってことです。

 

初回の連載でも言ったように、

愛をはっきりと定義しないからこそ、

愛に関して大事か怪しい言葉が巷で流れてしまって、

人は混乱し、時に傷ついてしまう。

 

本当は愛が欲しかったにもかかわらず、

パートナーが愛ではなく、

何か悪い物(暴力にしろ言葉にしろ、金銭的にしろ、身体的にしろ)をあたえてくる。

 

だから愛を神秘的なままにしてはいけない!

 

これがこの連載での一貫した問題意識の一つになります

 

このことは何としても、

ここで覚えていて欲しいと切に願います。

 

 ■なぜフロムは愛を理性的で能動的なものにしたのだろう

 

とはいえこんなこというと

今までのフロムの愛の定義はまったく役立たずになってしまうように聞こえる。

 

でも私はそうはおもっていない。

 

フロムを私なりに擁護すると、

彼が愛をここまで理想的なものにしてしまったのは、

やむをえない事情しかも重大な理由があると思っている。

 

彼は1900年から1980年までを生きた

ユダヤ系のドイツの精神分析学者なんだ。

 

もうこれだけでもピンときているかたもいらっしゃるかもしれないが、

 

彼は二度の悲惨な世界大戦と

そして彼含めユダヤ人の大虐殺という

どうしようもないほどの人間の邪悪さを当事者として目の当たりにしているんだ。

 

 彼に限らずだけれども、

この時代の学者はこの人類史上最悪の惨事が現実に起きてしまったことに対して、

深くショックを受けその理由を探そうとした。

 

フロムからすればその理由は以下になる。

 

すなわち

 

人間は生まれながらに孤独である。

 

資本主義は閉鎖的な部族社会から人々を解き放ち、

自由をあたえた。

 

でも人は自由でありながらそれゆえに孤独であることに耐えられなくなってしまった。

 

だから

人々は個人であるという自由を犠牲にしてでも、

大衆に迎合して、

なにが本当に正しいことなのかなど考えずに、

カリスマ的な人物や大勢の人が信じることを鵜呑みにしてしまった。

 

信じてしまえばあとはその他のことは何もなかったように、

見ない、聞かない、言わない。

 

そうその代表的な例が

ナチスヒットラーユダヤ人へのホロコーストだった。

 

ここまでのことはフロムの他の著書(自由からの逃走)とかに詳しいからこれ以上は言及しない。

 

ここまでのホロコーストにいたる過程、

私は理解して欲しいけど、

もしかしたら理解できない人もいるかもしれない。

 

だけどこれだけは覚えていて欲しい。

 

 大虐殺に踏み切ったのは何も極悪人ばかりじゃない。

 

ハンナ・アレントという高名なこれもユダヤ系の哲学者は、

 

アイヒマンというユダヤ人の官大虐殺に加担したナチスの官僚を、

 

極悪人ではなく、ごく普通の小心者でとるに足らない役人に過ぎない

 

と評した。

 

読者の中にはホロコーストも戦争も自分には関係ないと現代には関係ないと思っておられる方もいらっしゃるかもしれない。

 

でも、

何も考えず受け身で生きている、

ありふれたどこにでもいる人間が凶行に及んだのだ

 

何も考えていない、

あるいは考えようとしているけども、

忙しくて、本を買うお金がなくて考えることが出来ない人間なんて、

現代にもいくらでもいるのではないでしょうか。

 

だからこそフロムは、

愛を無意識的で非理性的、そして受け身のものとして定義することが許せなかった。

 

なぜなら孤独を恐れた何も考えない、受け身な人間こそが集団と化して大虐殺に踏み切ったのだから。

 

もしかしたら現代の日本人が、

そんな大虐殺のような野蛮な行動にでることはないかもしれない。

 

それでも今なお、

仲の冷え切った両親が子どもをネグレクトしてしまう、

虐待してしまう、殺してしまう。

 

不安で孤独でどうしようもない人間が、

恋人を殺してしまう、

通り魔的に無関係の人を殺めてしまう。

 

そんなことがワイドショーをにぎわせ続けている。

 

そう。

現代の人だって愛がねじ曲がって、

なんらかの凶行に及びうる。

そのことはなんら変わってはいない。

 

だからこれも絶対覚えていて欲しい。

やはり、愛を何も考えない無思考で受け身なだけのものにはできない。

 

そして

愛という行動を思考しながら行うためにも、

何としても愛を明確に定義しなければならない。

 

でなければ、

愛によって誰かが傷つけられてしまうのだから。

 

 ■まとめ

 

愛を無意識的で受け身の行動にしてはならないだろう。

 

でもそれは、

愛のなかで、熱に浮かされるような、そんな満足を、

気持ちよさを感じてはならないということでもない。

 

むしろそれをなくしてしまったら果たして人は何を動機に愛することができるだろうか。

 

よって私は第二回の連載を以下の形でまとめたいと思う。

 

愛は、

愛されることによって得られるかけがえのない満足を失うことなく、

 

されど、

ただただ無意識的で何も考えない受け身のものにするわけでもない愛するという能動性をも失わないものとして、

 

神秘的ではなく、より現実的で科学的なものとして定義しなければならない。 

 

さて、長くなってしまいましたがフロムに関しては今回でお終い。

 

フロムの「愛するということ」については非常にラフな形でまとめましたし、フロム自身の言葉ではなく、私の言葉に訳している部分も多いので、興味があればぜひ原著を読まれることをお勧めします。

 

次回ですが、

今回触れなかった愛がなぜ一般的に神秘的なものとしてしか考えられていないか、そのことを考え、ついで愛を社会科学的に考察できるか示していきたいと思います。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

次回からいよいよ社会科学として愛を定義するという本題へと移りますので、

 

どうか応援のほどよろしくお願いいたします。