第二回 愛は愛されることか愛すことか~E.フロム「愛するということ」を考察する~
ども、こんにちは!
気候の変化と花粉に体調をもてあそばれる男、鎌田です!
前回は愛に関して世の中には明白な定義がなく、このままでは愛を人間が手に入れるのは困難ではないかということをお話してきました。
そこで今回から本題の愛とは何か、考えていきたいと思います!
で、愛の定義について考える材料として今回は、
E.フロムの「愛するということ」(懸田克躬 訳)(1956年著)
の内容をざっとまとめて考察したいと思います。
んで、なんでE.フロムの「愛すること」をとりあげるかというと、
まず、最近ツイッターでもよく見るアドラー心理学と並んでこの本が書店で並べられていて、かつ新版も出て、たいへん手に入れやすいこと。
二点目にこのブログでは分かりやすくをモットーにしてますが、
この本の論理構造が中学高校の現代文でよく見る、
一般論を提示して、それを批判し著者の意見を述べるスタンダードなものだということ。
そして最後に、フロムがこの本を著した意図が面白く、現代にも当てはまる部分があるからです!
ではどんな意図をもって書かれたか序文から引用すると、
「この著書を読んでも、もしもこの中に、愛する技術についての安易な指示を期待していた人は失望するに違いないと思う。この本は、そのような期待に対してはむしろ逆なもので、愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合いと関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない、ということを指摘しようといとしたものだからである。読者に対して、全体としての自分のパーソナリティを発達させ、生産的な方向をとるようにすることを積極的に試みないかぎりは、いかに愛をもとめる試みをしたところで、失敗することは決定的だということを痛感させようと思っている本だからである。ひとりひとりの人の愛が満たされるということも、その人が隣人を愛しうる力を持っており、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては、到達できないものだということを確信せしめたい、と思っている本だからである。」
まとめると、いくら愛が欲しいからって、小手先の恋愛ノウハウにすがってもダメでしょ。人間としての成長がまず先でしょ?
というなんとも辛辣な意見なわけですけど、
皆さんどうでしょ?
耳が痛いという人も多いのでは?
「安易な指示を期待するな」は小手先の恋愛ノウハウが広まっても、
根本的には愛にまつわる問題が何も解決していない状況を示しているように僕には読めるし、
「全体的な自分のパーソナリティが成長しなければ、(愛は)失敗する」は、相手に自分の依存ばかりをぶつける人や、相手にばかり社会的なステータス(金とか容姿とか)を求める強欲な人とかを、ぶん殴りに行ってんなって思える。
そんなわけで愛について反省するにはもってこいな本だということが伝わったでしょうか?
そんな「愛するということ」を材料に愛について考えていきたいと思います!
それにあたってなのですが、
自分のもっているのが旧版なのと、
もしブログを読んで本の内容が気になったならば、全ページ読んでいただきたく、
引用箇所がどこかは示さないことにします。
在野だしいいよね??
■E.フロムの愛の定義
早速フロムが愛をどう定義しているか、見ていきたいと思います!
手始めに引用から
「愛は技術であろうか。技術であるとすれば、愛するためには知識と努力が必要となる。それとも愛とは快い感じにすぎないものであり、それを経験すると否とは、機会のいかんにかかるもの、幸運にさえ恵まれるならばきっとその中に「おちこむ」というようなものなのであろうか。・・・(中略)しかし、今日の人びとは、その大部分が、後者の意見を持っていることは疑いないように思われる。」
まず引用の中から一般論が
愛とは快い感じにすぎず、幸運であればその中に「おちこむ」ようなもの
次に著者の意見が
愛とは技術であり、愛するには知識と努力が必要
ということになるのだけども、
本の内容を総合的に見て、
前者の一般論を
愛されること
後者のフロムの意見を
愛すること
とまとめます!
とはいえこのままだと著者が言いたいことが分かりずらいので、
この愛されることと愛することとは何かより詳しく見ていくことにしよう。
●愛されること
この愛されることの特徴は
愛に関係する人間のあらゆる行動が受け身だということ
この受け身の行動のまず一つには
自分を魅力的にすることがあるとフロムは言います。
えっ、自分を魅力的にするって、能動的でいいことなんじゃと皆さんは思われるかもしれませんが、フロムに言わせれば違います。
いったいどういうことか?
自分を魅力的にしようとするのはなぜでしょう?
男性が自分を着飾り、振る舞いで男らしさを表現し、高い地位や豊富な財産を築こうとするのは
あるいは女性が、自分を洋服や化粧で着飾り、女性らしさを強調し、チャーミングであろうとするのは、
それらはつまり、
誰かに愛されるという受け身な状態を目指すものであり、
自分が誰か特定の個人を愛そうというものではないからです。
これをフロムは資本主義社会の仕組みになぞらえつつこんな表現をします
皆さん、自分がショッピングモールで買い物をしていると考えてください。
あなたは買い物をするとき、商品が陳列されている棚を見て、魅力的な物を買いますよね?
これと同じで、
自分を魅力的にすることは自分を商品棚に陳列し、値札をつけるようなもの。
自分は商品棚に並べられた状態では、お客さんつまり自分を愛してくれる人に直接的には影響をあたえられません。
なので、自分という商品にふさわしい貨幣が支払われる、つまり自分の社会的ステータスや容姿にふさわしい人が自分を買ってくれるのを待つばかりになります。
そう、自分を魅力的にしておくだけでは、仮にこの人だという個人がいても愛が育まれるかは究極的に相手次第、成り行き次第になります。
次に愛されるという受け身の行動として、
愛というのが無意識的で、自分の意志で行われるわけではない、「恋に落ちる」という行動があります。
またもや、皆さんはそれって悪いことではなくない?と思うかもしれません。
「恋に落ちる」というのはフロムに言わせれば、その瞬間瞬間で熱に浮かされ、感情に身を任せただただ流されていくということです。
それは結果として幸福であればもしかしたらいいのかもしれません。
しかし、ただ身を任せるだけでは、その恋は時に
恋人同士のあいだに支配関係をつくり、恋人のどちらかが自分にとって気持ちのいいようにわがまま放題するようなことになるかもしれません。
それは結果的に恋人関係を短期で破壊してしまい、かつわがままをこきまくる人はいつまでもそれに気が付かず、愛を手に入れることは叶わないかもしれません。
さてここまでの内容をまとめましょう。
フロム流に言わせれば
愛されることというのは、無意識的で受け身な行動である。
そしてそれは人間らしい理性による能動的な働きかけがなく悪い物である。
さて愛されることがどういうことだとフロムが考えていたか結論がでました。
ではフロムは愛するということを重要視していたようですが、
これがいったいどういうことなのか考えていきましょう。
といいたいところですが、今回は長くなってしまったのでここまで。
次回は
フロムの言う愛することがどういうことかまとめます。
そのうえで、読者様も感じていらっしゃるかもしれませんが、
フロムが否定する愛されることの中にも、
愛ということに関して大事な何かがあるように思います。
なので愛することの定義づけのほかに、
フロムのいう愛の概念について、批判的に再考していきたいと思います。
読んでくださった皆様、
ありがとうございます。
次回も重要なことを説明するつもりですので
読んでくださると幸いです。
更新は一週間後を予定です。
よろしくお願いいたします。