愛とは何か~愛を科学的に解明する~

愛とは何だろう。人を幸福にしつつもどこかで人を傷つけてもしまう愛。この両義的で神秘的な「愛」について巷に溢れるモテのノウハウや啓発書とは異なった視点から元早稲田大学の学生である管理人が描いていくブログ。週一くらいで更新。

第四回 愛は科学できるかできないか~感情は目で見れるか見れないか~

長らく更新が滞っていました。

 

申し訳ございません。

 

かまちゃんです。

 

前回は愛とは

 

愛されることなのか愛すことなのかを考え

 

結果、どちらも大事ではないかという結論を出しました。

 

とはいえ愛に関して、

 

愛が一般的には神秘的で目には見えないものと考えられている以上

 

言葉で定義できないため、

 

現状、意識的に愛を考え愛という行動をすることが出来ません。

 

はたして愛は神秘的であるがゆえに科学することが出来ないのでしょうか?

 

いや、私は愛は科学によって完全とは言えなくても定義できると断言します!

 

そのことを根拠をもって説明するため、

 

まずは愛を含め感情と呼ばれるものが神秘的に考えられることを決定づけた、

 

哲学者のデカルトについてご説明します。

 

哲学やデカルトと言われると身構えてしまうかたもいらっしゃるかもしれません。

 

しかしご安心ください。

 

今回も前提知識なし、国語の読解力なしでも分かりやすいようにご説明します!

 

 

 

心を目に見えない物にしたデカルト

 

先ほどお話したように、

 

心を目に見えないものとして定義し、

 

今なおその影響力が強く残っているのがデカルトの考え方です。

 

皆さんも義務教育の中で彼の名前を聞いたのではないでしょうか。

 

そう「我、思うゆえに我あり」ですね。

 

彼こそが近代以降に生まれた人たちの常識に、

 

心は身体とは別次元にある実体だ(ゆえに心は目では見れない)

 

という考え方を植え付けた人です。

 

心は身体とは別の次元にある実体だ、といわれても理解が難しいかもしれません。

 

こう考えてみましょう。

 

頭の中にドラエモンを思い浮かべてください(笑)

 

ドラエモンには四次元ポケットがついていますよね?

 

その中には実体をもった色んな物が、つまり秘密道具がありますよね?

 

まずドラエモンの体はのび太君と同じ、三次元にあります。

 

一方先ほども述べたように秘密道具は四次元ポケットの中にあります。

 

デカルトにおいては

 

体と心の関係は、上記のドラエモンと秘密道具の関係と同じになります。

 

つまり、体はドラエモンと同じで三次元に、現実世界にあります。

 

しかし、

 

心は体のある三次元ではなく、

四次元とはいいませんが、どこか秘密道具と同じで体と別の空間にあります。

 

ドラエモンの例えと異なるのは、

 

心は四次元ポケットのようなもので三次元とはつながっていないということです。

 

なので心を目で見ることはできず、

 

また三次元の世界から心を操作することもできません。

 

お分かりいただけたでしょうか?

 

とりあえずデカルトは、

 

心は体と別の空間にあるので

目で見ることは不可能である

また人間の世界がある三次元の現実世界から心を操ることは不可能である

 

と考えていたと覚えておいてください。

 

 

デカルトの心の定義の時代背景

 

上記の心の定義は、

 

言い方を変えながらも現代人の心や愛についての考え方に常識として今なお残り続けています。

 

ではなぜデカルトは上記のように心を考えていたのでしょう。

 

それには時代性が深く関わっています。

 

彼が世の中に大きな影響力を持つこととなった論文「省察」は

 

1641年の時代が近代へと移り行こうとしているなかで書かれました。

 

近代といえば産業革命など科学技術が大きく発展した時代です。

 

科学技術が発展する以前、

 

世の中では様々な根拠のない迷信や神様への信仰などが大きな影響力を持っていたため、

 

人間の理性によって思考するということがないがしろにされていました。

 

なのでいくら科学的に正しいことでも神様への冒涜だとして様々な科学者や哲学者が迫害されてきました。

 

そこで人間が思考することを促すために哲学をしたのがデカルトでした。

 

彼は世の中にある迷信のようなものを信じることが出来ないため、

 

ありとあらゆるものを疑い始めました。

 

それは、

 

自分が夢を見ているかもしれない、

 

神様に悪魔に騙されているかもしれない、

 

として自分の体を含め自分が知覚している世界も疑わしいとして無視しました。

 

そうして彼が疑いに疑った結果残ったのが、

 

自分があらゆるものに疑いをかけているという意味で、

 

自分が物事を思考しているという事実でした。

 

有名な「我、思うゆえに我あり」ですね。

 

そのことによって

 

デカルト人間の理性を絶対的に優位な物としました。

 

この哲学的な考え方によって、

 

迷信は否定され、

 

科学を筆頭に人間の理性が全面的に信頼されるという状況が整いました。

 

ただしそれですべてが解決したわけではありませんでした。

 

科学が神様のように絶対的な物だとすると、

 

人間の自由、意志、創造性、魂そして心といったものすらも

 

科学で操れてしまうことになってしまう。

 

それは人間性尊いものとして守りたいデカルトからすれば耐え難いことでした。

 

そこで彼は、

 

心と身体は異なるものであり、

 

心の実体は体とは別の次元にあるとすることで、

 

身体は科学によって操れるかもしれないが、

 

心は人間の生きる世界の中にないので科学によっても操れないということにしました。

 

そうしてこの哲学的な前提のもと、

 

物理学、心理学、医学、社会科学などが発展していくこととなります。

 

 しかしそれでもなお疑問が残ります。

 

心が人間が生きている三次元の中にはなく目では見えないにもかかわらず、

 

なぜ人に喜怒哀楽のような心があるということが出来るのだろうか?

 

だとすると本当に心は目で見えないものなのだろうか?

 

 

■心は目で見れるか見れないか

 

 では本題。

 

はたして心は三次元ではないどこか別の空間にあるために、

 

目で見えないものなのだろうかそれとも見えるのだろうか?

 

このことを考えるために心と体の関係を二パターンにわけ、

 

それぞれの場合でのうつ病における投薬治療の効果を考慮して考えてみよう!

 

ちなみに、

 

うつ病における投薬治療とはどういうことかというと、

 

うつ病という気分の落ち込みに気力の低下や自殺願望をともなう精神の病気、

 

この原因は脳の自律神経の乱れにあるとして、

 

風邪を治すように、薬を飲んで脳の自律神経に働きかけて心を治すということです。

 

つまり、精神を治すのに、体に働きかけようって治療法です。

 

 

●パターン1 心は身体と別の空間にあって相互に影響をあたえあっていない

 

これは表題の通り、

 

心は身体とは別の次元にあるので、お互いに影響を与えあわないと仮定するということです。

 

さてこれどう考えてもおかしいんです。

 

うつ病の投薬治療のように、

 

薬で体に働きかけることで、心の鬱な気分がなくなっているからです。

 

お互い影響を与えないならば、

 

薬を飲んでも気分がよくなることなんてありません。

 

これは科学的にも証明されていて、

 

例外はあるにしろ、抗うつ薬が心をよくするのに一定の効果があります。

 

また逆も同様で、

 

心は体に影響を与えます。

 

例えば、

人間は大勢の人の前でスピーチをするとなると、

手に汗をかいたりします。

 

よってパターン1はおかしいということになります。

 

 

 ●パターン2 心は体とは別の次元にあるが相互に影響を与えあっている

 

それではパターン2です。

 

これはパターン1と異なり、

 

心と体は相互に影響を与えあっているが、

 

パターン1と同じで心は三次元ではない別の次元にあります。

 

さてこちらもよく考えるとおかしなことになります。

 

先ほどと同じようにうつ病における投薬治療を考えると、

 

体がよくなったから、心がよくなったというのはパターン2の定義と矛盾しませんが、

 

体がよくなる前に、薬を飲んだことを考えると、

 

一体心は人間の身体と別の次元にあるのに、

 

体に入った薬の成分はどうやって、三次元から別の次元へ届いたのでしょう?

 

逆もまた同様。

 

心が緊張したとして、

 

いったいどのように三次元にある身体に影響を及ぼしたのでしょう?

 

そう、論理的に言って心と体がそれぞれ別の次元にあると考えることはできません。

 

むしろこう考えたほうが正しいでしょう。

 

心は体と別の次元にある、別々のものではない。

 

むしろ、

 

心と体は同じものである。

 

すなわち、

 

心は身体のことである。心=身体である!

 

と。

 

だから薬を体に取り入れれば心もよくなります。

 

だってそもそも心に実体なんてないばかりか身体と同じものなのだから。

 

 そして、このことからこの連載におけるかなり重要なことが分かります。

 

ここ絶対覚えてください!!!!!

 

 心は身体のことなのだから、

 

愛という心の働きも当然体の働きになります。

 

ということは、

 

愛というものは、体の働きとして目に見えるものだということになります!

 

だって体は人間の目に見えるもので、心は体なんですから。

 

はい、もう一度念のためまとめておきます!

 

心は身体である(心=身体)

よって愛は体の働きであり、目に見えるものである!

 

 

 ■誤解を招かないように~心は脳に還元できない~

 

さて、ここで誤解を招かないように皆さまに注意を促したい。

 

それは、

 

心の働きは全て脳内物質であり、

よって精神病は薬物投与によって全て解決できるなどと考えてはならない。

 

ということです。

 

確かにうつ病に対する投薬治療のように、

脳内物質は心の働きに関与している。

 

しかしだからといって投薬治療は万能ではない。

 

まずそもそも全ての精神病に対して投薬が有効というわけではないという臨床的な事実。

 

だからこそ日本ではあまりポピュラーではないものの、

 

ヨーロッパにおいてはいまだに精神分析療法が行われ、

 

ここ日本においても森田療法という投薬とは異なる治療法が行われたりします。

 

私が思うに、

 

それは投薬治療においても解決していない問題があるためだと思われます。

 

すなわち、なぜ脳内物質は正常な活動をやめてしまうのか?

 

また、物理学や物理学に準拠するような医学では人間の行動すべてを説明できるわけではありません。

 

なぜならば、

人間は言語的/非言語的「意味」によっても影響を受けているからです。

 

例えば、

皆さんがご両親の危篤の知らせを受け取ったとします。

 

その時皆さんはもしかしたら、

手に汗をかいたり、不安で心拍があがったり

 

とにかく身体的な変化を経験するかもしれません。

 

さてこの身体の反応はお便りの放つ物質的ものの影響でしょうか?

それともその知らせの内容という「意味」の影響でしょうか?

 

当然後者です。

 

なぜなら危篤の知らせを手紙でもらおうが、電話でもらおうが、LINEでもらおうが、

身体の反応は大きくは変わらないだろうからです。

 

直筆の手紙や肉声による電話よりも、LINEで同じ知らせを受け取ったほうが心配にならないなんてことないですもんね?

 

どの手段で知らせを受け取ろうが、両親は危篤なのだから。

 

よって、

 

うつ病も患者の経験した「意味」によって発病している可能性があるのだから、

 

投薬しても状況は変わらないということは十分考えうる。

 

ということになります。

 

かといって別に私は投薬療法を完全否定するものでもありません。

 

それはあくまでケースバイケースです。

 

おそらく全員がではないでしょうが、そのことは現場の精神科医も了解するところと思います。

 

以上脇道に逸れる形ではありますが、

 

デリケートな問題なので注意喚起させていただきました。

 

 

■まとめ

さて今回も長くなってしまいましたが、

 

ご理解いただけたでしょうか?

 

力及ばずということであれば、

 

お気軽にコメント欄にご質問ください。

 

再度になりますが今回の重要な結論を記しておきます。

 

●結論

1、

心は身体である(心=身体)

愛は体の働きであり、目に見えるものである!

よって愛は科学で定義できる

 

2、

人間は言語的/非言語的「意味」によっても影響を受けている

 

今回の結論を受け次回は、

 

愛という行動を社会科学的に定義するために、

どのような人間の行動を対象とするかを述べ、

 

加えて人間の行動の仕組みについても触れていこうと思います。

 

今回もお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

 

第三回 愛は愛されることか愛すことか~E.フロム「愛するということ」を考察する(後編)~

一記事入魂。精魂バテバテ。

 

疲れやすい体質のかまちゃんです

 

前回はフロムの著書「愛するということ」を参考に

愛を、

愛されることと愛すことの二つに分けました。

 

前回の記事でフロムが、

一般的に愛は愛されることとして考えられているが、

それは無意識的で受動的な態度であり、

人間らしい理性による能動的な働きかけを持たないという意味で良くないものだ、

と結論づけていることを確認しました。

 

では、フロムが推奨する

愛を愛することとして考えるとはどのようなことでしょうか。

 

■愛するということ

 フロムが愛することをどのように表現しているか本の中から抜き出してくると、

 

それは、

技術成熟活動生産的性格(与えるということ)

 

というになりますが、

 

では一体それぞれがどういうことか、

 

見ていきましょう!

 

 

愛は技術である

 

フロムが愛は技術であると言及する際に強調しているのは、

 

愛は理論を学習するものであり、繰り返して練習するという努力を必要とする。

 

ということなんですけど、

 

ぱっと見ただけでは意味が分からないですよね?

 

そこで、

鉄棒で逆上がりをしたことがあると思うので、ちょっとこれを例に考えてみましょう!

 

で、完全に余談ではあるんですけど、

 

私、小学校低学年の頃ずっとこの逆上がりとかいうやつがどうもできなくて、

 

「逆上がりなんてできて何になるねん!?」てな具合で、

 

まあ心底この逆上がりを恨んでて、

 

さぼって豚の丸焼きっていうのばかりやって、

 

逆上がりの練習をさぼっていたわけですよ。

 

で、なんであんなに逆上がりできなかったのか考えてみると、

 

私基本、どんな物事も習得するときに理論から入ったほうがやりやすくて、

 

思い返すと指導してくれる人が断然感覚派で合わない合わない(笑)

 

それで逆上がりの例に戻るけれども、

 

逆上がりも一つの技術ですよね。

 

それで、

逆上がりの理論にあたるのが、

例えば腕の力で体を鉄棒の方へ持ち上げる。

というのがありますよね。

 

僕の場合これを聞いて、

実際にその通りにやってみたわけですよ。

 

最初こそうまくいかなかったけれども、

 

何回も繰り返して、

 

それでもできないから、足の上げ方聞いて。

 

それで何とかできるようになって。

 

そう、

私は逆上がりという技術を、

腕の使い方と足の上げ方という二つの理論を知り、

 

その理論に従って

何回も繰り返し練習して

 

習得することができました。

 

この逆上がりと同じで

愛も理論を知って、反復練習することで習得できる技術なんですよってことを

 

フロムは言いたかったのだと思います。

 

 

 ・愛とは「成熟した愛」である

 

 はい、

では二つ目の「成熟した愛」とは何でしょう?

 

熟年夫婦のように大人のカップルの長年の付き合いのことではありません(笑)

 

フロムの言葉を借りれば

 

成熟した愛は、本来の全体性と個性を保ったままの状態での合一である

 

うん。。。

 

ちょっと何言ってるのか分からない。

 

自分なりに分かりやすく言うと。

 

最初の本来の全体性だけれども、

 

まず前提として、

人は生まれながらに他者から分離している。

えーと要するに孤独なんだ。

 

けれども、

生まれる前は神様の下で、

人類みんな別々の存在ではなく、一つのものだった。

よって孤独ではなかった。

 

だから、

人は生まれながらに孤独だけれども、

 

その孤独感に押しつぶされないように、

神様の下にいたときのようにひとつに他者と融合しようとする。

 

このことを想定して本来の全体性と呼んでいるんだ。

 

でもフロム的には融合するだけでは愛とは呼べなくて、

 

個性を保つということも重視している。

 

つまり、

融合して孤独感を解消するけど、

それでもなお完全には融合しないで人間が別々の個人であること。

 

これを成熟した愛と呼んでいるんだ。

 

それでなんだけども、

 

皆さんこんなことを解説している私やフロムを、

 

なんというかスピリチュアル系の人かな?

 

とか、スピリチュアル系の人を信頼していない人なんかは胡散臭いとか怪しいとか思ったと思うんです。

 

ですがフロムは知りませんが、

僕はスピリチュアルをあまり信じていません。

 

ま、そこまで思っていなくても、

意味分からん!!

 

とは思ったのではないでしょうか?

 

なのでもっとこのことを分かりやすく科学的に説明します!

 

。。。。。と言いたいんですけど、

 

私としてもここでできる簡単な説明は上の通りが限界で。

 

実はここらへんに愛に関する現代の言説の問題があるように思うのだけれども、

それがこの愛は何であるかというこのブログの一貫した問題意識になっていきます。 

 

なのでそれはまた後々ということで。

 

 ・愛には生産的な性格が必要

 

うん。ちょっと雲行きが怪しくなってきたところで、3つ目。

 

ここでいう生産的な性格とは、

 

愛をあたえること。

 

でも、あたえたからと言って見返りをねだらないこと。

 

愛をあたえたからと言って、

そのことを自分の貯蓄が減るようなことだと考えないということ。

 

 

さすれば、

それは他者を真に愛したこととなり、

あなたは他者から必ず愛されるであろう。

 

うん。。。

 

またスピリチュアルめいてきた。

もう、さっきも言ったから文句は僕じゃなくてフロムに言ってくれ!

 

とりあえず、愛はあたえられるじゃなくてあたえるもの!そう思う性格が大事って覚えてくれ。。。

 

・愛は活動である

 

さて気を取り直して、

最後の愛は活動である。

 

これは今までの愛するということをまとめるような表現だ。

 

それは、

技術にしろ、個性を保つにしろ、あたえるのが大事にしろ、

 

どれも愛されようという抑えようのない自分の無意識に流されたりせず、自分の意志で能動的に愛するということなんだ。

 

はい、

長かったけれどもフロムのいう愛するということを簡単にまとめ終わりました。

 

■愛は愛することでいいのか

 

フロムはここまで見てきたように、

愛を愛すること、

 

つまり

愛されようという抑えようのない自分の無意識に流されたりせず、自分の意志で能動的に愛することというふうに定義していた。

 

でもここまでの記述でもちょっと匂わせてきたけれども、

これって本当に正しいのだろうか?

 

彼の愛はどこか理想的すぎるし、

神秘的過ぎるのではないだろうか。

 

例えば、

愛はあたえるものであって、愛されようとねだってはいけない。

真の愛であれば、あたえていれば自然と自分も愛される。

 

これってどう考えても理想的過ぎるし、

どこのユートピアだろうと思う。

 

人が他者と関わるのは、

相手からリアクションがあるからだし、

そこで自分が愛されることを願ってはいけないのだろうか?

 

それに現実を見ていると、

相手に尽くしても尽くしても、

ちっとも報われないことはよくあることだと思う。

 

それは愛じゃない、ただの依存だと言い切ってしまえば、

愛をあたえていると思っている人があまりに不憫だ。

 

さらには、

本来の完全性と個性を保ったままというのも神秘的過ぎて、

キリスト教とか神様を信じているわけではない人にはいまいち想像しづらい。

 

無宗教者には愛はないのかと突っ込まれそうだしね。

 

よし、ここでとても重要なことはをいいます!

 

私がどうしても知ってほしいことの一つは

愛というものを神秘的で定義できないものとしてしまうと、

良くないことも多い。ってことです。

 

初回の連載でも言ったように、

愛をはっきりと定義しないからこそ、

愛に関して大事か怪しい言葉が巷で流れてしまって、

人は混乱し、時に傷ついてしまう。

 

本当は愛が欲しかったにもかかわらず、

パートナーが愛ではなく、

何か悪い物(暴力にしろ言葉にしろ、金銭的にしろ、身体的にしろ)をあたえてくる。

 

だから愛を神秘的なままにしてはいけない!

 

これがこの連載での一貫した問題意識の一つになります

 

このことは何としても、

ここで覚えていて欲しいと切に願います。

 

 ■なぜフロムは愛を理性的で能動的なものにしたのだろう

 

とはいえこんなこというと

今までのフロムの愛の定義はまったく役立たずになってしまうように聞こえる。

 

でも私はそうはおもっていない。

 

フロムを私なりに擁護すると、

彼が愛をここまで理想的なものにしてしまったのは、

やむをえない事情しかも重大な理由があると思っている。

 

彼は1900年から1980年までを生きた

ユダヤ系のドイツの精神分析学者なんだ。

 

もうこれだけでもピンときているかたもいらっしゃるかもしれないが、

 

彼は二度の悲惨な世界大戦と

そして彼含めユダヤ人の大虐殺という

どうしようもないほどの人間の邪悪さを当事者として目の当たりにしているんだ。

 

 彼に限らずだけれども、

この時代の学者はこの人類史上最悪の惨事が現実に起きてしまったことに対して、

深くショックを受けその理由を探そうとした。

 

フロムからすればその理由は以下になる。

 

すなわち

 

人間は生まれながらに孤独である。

 

資本主義は閉鎖的な部族社会から人々を解き放ち、

自由をあたえた。

 

でも人は自由でありながらそれゆえに孤独であることに耐えられなくなってしまった。

 

だから

人々は個人であるという自由を犠牲にしてでも、

大衆に迎合して、

なにが本当に正しいことなのかなど考えずに、

カリスマ的な人物や大勢の人が信じることを鵜呑みにしてしまった。

 

信じてしまえばあとはその他のことは何もなかったように、

見ない、聞かない、言わない。

 

そうその代表的な例が

ナチスヒットラーユダヤ人へのホロコーストだった。

 

ここまでのことはフロムの他の著書(自由からの逃走)とかに詳しいからこれ以上は言及しない。

 

ここまでのホロコーストにいたる過程、

私は理解して欲しいけど、

もしかしたら理解できない人もいるかもしれない。

 

だけどこれだけは覚えていて欲しい。

 

 大虐殺に踏み切ったのは何も極悪人ばかりじゃない。

 

ハンナ・アレントという高名なこれもユダヤ系の哲学者は、

 

アイヒマンというユダヤ人の官大虐殺に加担したナチスの官僚を、

 

極悪人ではなく、ごく普通の小心者でとるに足らない役人に過ぎない

 

と評した。

 

読者の中にはホロコーストも戦争も自分には関係ないと現代には関係ないと思っておられる方もいらっしゃるかもしれない。

 

でも、

何も考えず受け身で生きている、

ありふれたどこにでもいる人間が凶行に及んだのだ

 

何も考えていない、

あるいは考えようとしているけども、

忙しくて、本を買うお金がなくて考えることが出来ない人間なんて、

現代にもいくらでもいるのではないでしょうか。

 

だからこそフロムは、

愛を無意識的で非理性的、そして受け身のものとして定義することが許せなかった。

 

なぜなら孤独を恐れた何も考えない、受け身な人間こそが集団と化して大虐殺に踏み切ったのだから。

 

もしかしたら現代の日本人が、

そんな大虐殺のような野蛮な行動にでることはないかもしれない。

 

それでも今なお、

仲の冷え切った両親が子どもをネグレクトしてしまう、

虐待してしまう、殺してしまう。

 

不安で孤独でどうしようもない人間が、

恋人を殺してしまう、

通り魔的に無関係の人を殺めてしまう。

 

そんなことがワイドショーをにぎわせ続けている。

 

そう。

現代の人だって愛がねじ曲がって、

なんらかの凶行に及びうる。

そのことはなんら変わってはいない。

 

だからこれも絶対覚えていて欲しい。

やはり、愛を何も考えない無思考で受け身なだけのものにはできない。

 

そして

愛という行動を思考しながら行うためにも、

何としても愛を明確に定義しなければならない。

 

でなければ、

愛によって誰かが傷つけられてしまうのだから。

 

 ■まとめ

 

愛を無意識的で受け身の行動にしてはならないだろう。

 

でもそれは、

愛のなかで、熱に浮かされるような、そんな満足を、

気持ちよさを感じてはならないということでもない。

 

むしろそれをなくしてしまったら果たして人は何を動機に愛することができるだろうか。

 

よって私は第二回の連載を以下の形でまとめたいと思う。

 

愛は、

愛されることによって得られるかけがえのない満足を失うことなく、

 

されど、

ただただ無意識的で何も考えない受け身のものにするわけでもない愛するという能動性をも失わないものとして、

 

神秘的ではなく、より現実的で科学的なものとして定義しなければならない。 

 

さて、長くなってしまいましたがフロムに関しては今回でお終い。

 

フロムの「愛するということ」については非常にラフな形でまとめましたし、フロム自身の言葉ではなく、私の言葉に訳している部分も多いので、興味があればぜひ原著を読まれることをお勧めします。

 

次回ですが、

今回触れなかった愛がなぜ一般的に神秘的なものとしてしか考えられていないか、そのことを考え、ついで愛を社会科学的に考察できるか示していきたいと思います。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

次回からいよいよ社会科学として愛を定義するという本題へと移りますので、

 

どうか応援のほどよろしくお願いいたします。

 

 

第二回 愛は愛されることか愛すことか~E.フロム「愛するということ」を考察する~

ども、こんにちは!

気候の変化と花粉に体調をもてあそばれる男、鎌田です!

 

前回は愛に関して世の中には明白な定義がなく、このままでは愛を人間が手に入れるのは困難ではないかということをお話してきました。

 

そこで今回から本題の愛とは何か、考えていきたいと思います!

 

で、愛の定義について考える材料として今回は、

 

E.フロム「愛するということ」(懸田克躬 訳)(1956年著)

 

の内容をざっとまとめて考察したいと思います。

 

んで、なんでE.フロムの「愛すること」をとりあげるかというと、

 

まず、最近ツイッターでもよく見るアドラー心理学と並んでこの本が書店で並べられていて、かつ新版も出て、たいへん手に入れやすいこと。

 

二点目にこのブログでは分かりやすくをモットーにしてますが、

この本の論理構造が中学高校の現代文でよく見る、

一般論を提示して、それを批判し著者の意見を述べるスタンダードなものだということ。

 

そして最後に、フロムがこの本を著した意図が面白く、現代にも当てはまる部分があるからです!

 

ではどんな意図をもって書かれたか序文から引用すると、

 

「この著書を読んでも、もしもこの中に、愛する技術についての安易な指示を期待していた人は失望するに違いないと思う。この本は、そのような期待に対してはむしろ逆なもので、愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合いと関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない、ということを指摘しようといとしたものだからである。読者に対して、全体としての自分のパーソナリティを発達させ、生産的な方向をとるようにすることを積極的に試みないかぎりは、いかに愛をもとめる試みをしたところで、失敗することは決定的だということを痛感させようと思っている本だからである。ひとりひとりの人の愛が満たされるということも、その人が隣人を愛しうる力を持っており、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては、到達できないものだということを確信せしめたい、と思っている本だからである。」

 

 まとめると、いくら愛が欲しいからって、小手先の恋愛ノウハウにすがってもダメでしょ。人間としての成長がまず先でしょ?

 

というなんとも辛辣な意見なわけですけど、

皆さんどうでしょ?

 

耳が痛いという人も多いのでは?

 

「安易な指示を期待するな」は小手先の恋愛ノウハウが広まっても、

根本的には愛にまつわる問題が何も解決していない状況を示しているように僕には読めるし、

 

「全体的な自分のパーソナリティが成長しなければ、(愛は)失敗する」は、相手に自分の依存ばかりをぶつける人や、相手にばかり社会的なステータス(金とか容姿とか)を求める強欲な人とかを、ぶん殴りに行ってんなって思える。

 

そんなわけで愛について反省するにはもってこいな本だということが伝わったでしょうか?

 

そんな「愛するということ」を材料に愛について考えていきたいと思います!

 

それにあたってなのですが、

自分のもっているのが旧版なのと、

もしブログを読んで本の内容が気になったならば、全ページ読んでいただきたく、

引用箇所がどこかは示さないことにします。

 

在野だしいいよね??

 

■E.フロムの愛の定義

 

早速フロムが愛をどう定義しているか、見ていきたいと思います!

 

手始めに引用から

 

愛は技術であろうか。技術であるとすれば、愛するためには知識と努力が必要となる。それとも愛とは快い感じにすぎないものであり、それを経験すると否とは、機会のいかんにかかるもの、幸運にさえ恵まれるならばきっとその中に「おちこむ」というようなものなのであろうか。・・・(中略)しかし、今日の人びとは、その大部分が、後者の意見を持っていることは疑いないように思われる。」

 

まず引用の中から一般論が

愛とは快い感じにすぎず、幸運であればその中に「おちこむ」ようなもの

 

次に著者の意見が

愛とは技術であり、愛するには知識と努力が必要

 

ということになるのだけども、

本の内容を総合的に見て、

 

前者の一般論を

愛されること

 

後者のフロムの意見を 

愛すること

 

とまとめます!

とはいえこのままだと著者が言いたいことが分かりずらいので、

この愛されることと愛することとは何かより詳しく見ていくことにしよう。

 

●愛されること

この愛されることの特徴は

愛に関係する人間のあらゆる行動が受け身だということ

 

 この受け身の行動のまず一つには

 自分を魅力的にすることがあるとフロムは言います。

 

 えっ、自分を魅力的にするって、能動的でいいことなんじゃと皆さんは思われるかもしれませんが、フロムに言わせれば違います。

 

いったいどういうことか?

 

自分を魅力的にしようとするのはなぜでしょう?

 

男性が自分を着飾り、振る舞いで男らしさを表現し、高い地位や豊富な財産を築こうとするのは

 

あるいは女性が、自分を洋服や化粧で着飾り、女性らしさを強調し、チャーミングであろうとするのは、

 

それらはつまり、

誰かに愛されるという受け身な状態を目指すものであり、

自分が誰か特定の個人を愛そうというものではないからです。

 

これをフロムは資本主義社会の仕組みになぞらえつつこんな表現をします

 

皆さん、自分がショッピングモールで買い物をしていると考えてください。

 

あなたは買い物をするとき、商品が陳列されている棚を見て、魅力的な物を買いますよね?

 

これと同じで、

自分を魅力的にすることは自分を商品棚に陳列し、値札をつけるようなもの。

自分は商品棚に並べられた状態では、お客さんつまり自分を愛してくれる人に直接的には影響をあたえられません。

なので、自分という商品にふさわしい貨幣が支払われる、つまり自分の社会的ステータスや容姿にふさわしい人が自分を買ってくれるのを待つばかりになります。

 

そう、自分を魅力的にしておくだけでは、仮にこの人だという個人がいても愛が育まれるかは究極的に相手次第、成り行き次第になります。

 

次に愛されるという受け身の行動として、

愛というのが無意識的で、自分の意志で行われるわけではない「恋に落ちる」という行動があります。

 

またもや、皆さんはそれって悪いことではなくない?と思うかもしれません。

 

「恋に落ちる」というのはフロムに言わせれば、その瞬間瞬間で熱に浮かされ、感情に身を任せただただ流されていくということです。

 

それは結果として幸福であればもしかしたらいいのかもしれません。

 

しかし、ただ身を任せるだけでは、その恋は時に

恋人同士のあいだに支配関係をつくり、恋人のどちらかが自分にとって気持ちのいいようにわがまま放題するようなことになるかもしれません。 

 

それは結果的に恋人関係を短期で破壊してしまい、かつわがままをこきまくる人はいつまでもそれに気が付かず、愛を手に入れることは叶わないかもしれません。

 

さてここまでの内容をまとめましょう。

 

フロム流に言わせれば

愛されることというのは、無意識的で受け身な行動である。

そしてそれは人間らしい理性による能動的な働きかけがなく悪い物である。

 

さて愛されることがどういうことだとフロムが考えていたか結論がでました。

 

ではフロムは愛するということを重要視していたようですが、

これがいったいどういうことなのか考えていきましょう。

 

といいたいところですが、今回は長くなってしまったのでここまで。

 

次回は

フロムの言う愛することがどういうことかまとめます。

 

そのうえで、読者様も感じていらっしゃるかもしれませんが、

 

フロムが否定する愛されることの中にも、

愛ということに関して大事な何かがあるように思います。

 

なので愛することの定義づけのほかに、

フロムのいう愛の概念について、批判的に再考していきたいと思います。

 

読んでくださった皆様、

ありがとうございます。

 

次回も重要なことを説明するつもりですので

読んでくださると幸いです。

 

更新は一週間後を予定です。

よろしくお願いいたします。

 

第一回 日本人に愛は存在しない!~愛にまつわる言葉について~

愛とは一体何なのだろう。

それは時に人を考えられないくらいに幸せにしてくれる。

でも一方で愛にまつわる悲劇も多い。

振っては振られ。浮気されては人間不信になり、愛した人に傷つけられそれでも依存してしまう、そして挙句に愛がその人を殺すように仕向けもする。

どれだけ愛を求めども、他人は愛しい人を手に入れるのに、自分は待てども暮らせども愛を手に入れられない。自分の何かが劣っているのだろうか。

一体本当に愛など存在するのだろうか。。。

 

はい。ちょっと暗い感じで始めてみましたが、上の前置きを読み続けてくれた方はもしかしたら愛といわれるものに悩んでいて、読んでくれたのではないでしょうか。

 

遅ればせながら自己紹介させていただきます。

私、鎌田と申します。

社会人二年目で、一応早稲田大学を卒業した男性独り身です!

 

皆さま愛って一体何なんでしょうか?

えっと?分かってれば苦労はねーよって?

 

そうですね。

このブログにたどり着いた方は、愛や恋愛に困ってなんとかその困難に答えを出そうと努力される優秀な方々なのだと思います。

 

そんな皆様はおそらくネット検索や友人にご相談されるなどしたかもしれません。それは大変立派でまた尊敬すべき行動だと思います。

ただしそれらを見て聞いても、解決していないのではないでしょうか。そもそもネット検索や友人に訊けば解決するような問題なら、多くの人が愛や恋愛で悩むことはないでしょう。

 

そもそも愛にまつわるよくある言説は、あまりに多く支離滅裂で疑問ばかりです。

 

例えば、互いの愛を確認すること(告白)は三回目のデートってよく言うけど、なんで3回目なんだろう。その後相手の良さが分かることってあるじゃない。

 

例えば、恋愛ノウハウ。これって要約すると「○○すれば彼氏彼女ができます!」ってことだけど、○○じゃない人間は恋愛する、愛される資格もないのだろうか。例えば明るい性格の人が好まれるなら、暗いひとはその資格がないのだろうか。それってすごく差別的じゃない?

 

他にもよく考えたら愛に関しておかしいことっていっぱい思いつきませんか?単純接触効果とか、下世話だけどエッチが大事とか、趣味が合うかどうか(悪いことじゃないけど)とか果ては目に見えないフェロモンがどうとか、、、

 

そう!日本では(日本しか知らないけど)愛って何なのかに関して統一した考えはありません。

 

そんな状況って非常にまずいと僕は思います。

ちょっと難しい言い方になってしまうけど、

人が行動するときは思考して行動の目的を決めていると思うのだけれども、愛という行動を行いたいと思っても、その愛って言葉の意味が曖昧だと愛という行動がどういう目的をもつのか思考できなくて、愛って行動を行うことができないんだ。

 

だから極端な言い方だけど結果的に、

日本人に愛は存在しない!なぜなら愛の意味が分からないからだ。

ってことになりかねない。

 

そんな難しい言い方でなくても、

愛の意味が分からなくて、人はひたすら振り回され傷つき、効果があるんだかないんだか分からない恋愛の情報商材に騙されてしまったり、体を売ったり、、、

とにかく不都合なことだらけではないだろうか。

 

そこで

一回の食事よりは、読書が好きでここ一応学のある僕が、

社会科学や精神分析学に哲学の現在の水準の知識をフル活用して!

 

にもかかわらず!

愛とは一体何なのかを、中学高校の現代文くらいの分かりやすさで、僕なりの解釈を交えて解明していきたいと思います!

科学としての視点を色濃く、かつ簡単にという意味ではどの情報サイトやブログよりも充実したかつ珍しいコンテンツをお届けします。

 

そうすることで、

愛という現象に悩んで悩んで苦しい男女の皆さまの苦痛を和らげられたり、たとえなおきつかったりしても苦悩が無意味な苦悩にならないよう、

役に立つような考え方を提供できたらなと思います。

 

予定では週一から週二でブログの更新を行い、

内容は主に、E.フロム、ウィニコットラカンを参考に構成していきたいと思います。

一応全15回くらいを予定。

かなりカジュアルに書いていきます。

 

ですのでどうか読者の皆様、

拙いブログでなにかと分かりずらい点などあるかもしれませんが、

手持無沙汰で暇なときで構いませんので、

なにとぞ応援のほどよろしくお願いします。

 

ちなみにブログは初めて使うのですが、どうやらコメント機能があるようなので質問などございましたら気軽にご相談ください。コメントの表示は私が許可するまで表示されない設定に変更していますので、ご安心ください。

 

次回は愛を定義するための導入として、

ざっくりE.フロムを取り扱い、その問題点を指摘していきたいと思います。